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ロックビル (メリーランド州) : ウィキペディア日本語版
ロックビル (メリーランド州)

ロックビル()は、アメリカ合衆国メリーランド州モンゴメリー郡の中心部に位置する郡庁所在地であり、ボルティモア・ワシントン都市圏に属する。メリーランド州ではボルティモアフレデリックに次いで3番目に人口の多い都市であり、2010年国勢調査での人口は61,209 人である〔Bureau of the Census, U.S. Census Bureau Delivers Maryland's 2010 Census Population Totals, Including First Look at Race and Hispanic Origin Data for Legislative Redistricting . Accessed 2011.04.12.〕。
ロックビルは隣接するゲイザースバーグベセスダと共に、州間高速道路270号線技術回廊の中核であり、多くのソフトウェア会社やバイオテクノロジー会社の他に連邦政府の施設もある。また幾つかの大型ショッピングセンターがあり、モンゴメリー郡では小売業の主要中継点となっている。
== 歴史 ==
ロックビルはピードモント台地にあり、ロック・クリーク、キャビン・ジョン・クリークおよびワッツ・クリークの3本のクリークが走っている。紀元前8000年頃には半遊牧型先住民の優れた居住地だった。紀元前1000年までにヒマワリや湿地ニワトコなどの植物相を用いた定着型の農業社会が始める集団があった。紀元後1200年には、後の考古学者によって「モンゴメリー・インディアン」と名付けられた集団が、北のペンシルベニアニューヨークから流れてきたセネカ族やサスケハノック族との紛争に巻き込まれるようになった。現在のロックビル市内では6カ所の前史史跡が発見されて文書化されており、数千年前の人工物が発掘されている。西暦1700年までにヨーロッパからの植民者に押されて、これら先住民の大多数はこの地から追い遣られた。
先住民はシネカ・トレイルと呼ばれる道を高台に造り、これが現在のロックビル中心街になっている。後にメリーランド州議会が主要大通りの標準道幅を20フィート (6.1 m) に設定し、ロック・クリーク・メイン道路やグレート道路をこの標準で造られるよう指定した。1700年代半ばに、ローレンス・オーウェンがこの道路沿いに小さな宿屋を開いた。この宿はオーウェンズ・オーディナリーと呼ばれ、1755年4月14日にエドワード・ブラドック少将が泊まったことで有名になった。ブラドックは西部フロンティアに対するイギリスの領有権を確保するためにジョージタウン(現在のワシントンD.C.)から出発した遠征隊を率いていた。現在のロックビル・パイクに近いこの道路は戦略的に一年中乾燥している高台に置かれた。
ロックビル地域で最初の土地特許は1717年から1735年の間にアーサー・ネルソンが取得したものだった。その後30年の間に、ロックビルの中心となる所に最初の恒久的建造物が造られた。当時はプリンスジョージズ郡の一部であり、ダニエル・デュラニーのフレデリック・タウン(現在のフレデリック市)が成長したことで、プリンスジョージ郡の西半分が分離されることになり、1748年にフレデリック郡ができてロックビルもこの中に入った。
初期のロックビルはまだ小さく未編入の町であり、オーウェンズ・オーディナリー、ハンガーフォーズ・タバンおよびデイリーズ・タバンなど様々な名前で呼ばれた。最初にこの開拓地が記録に残されたのは1755年のブラドック遠征隊の時だった。この年4月14日、ブラドック将軍に率いられた約2,000名の兵士の一人が、「我々は1軒の家であるオーウィングスあるいはオーウィングス・オーディナリーまで行軍した。18マイル (29 km) あり大変ほこりっぽかった。」と記した。オーウェンズ・オーディナリーは、ジョージタウンからフレデリック・タウンまで伸び、当時のメリーランド植民地では最大級の大通りだったロック・クリーク・メイン道路(後のロックビル・パイク)沿いにある小さな休憩所だった。
1776年9月6日、メリーランド邦憲法制定会議で、メリーランドでは最大かつ最も人口の多い郡であるフレデリック郡を3つに分けるという、トマス・スプリッグ・ウットンが提案した案を可決した。ロックビルが入っている南部はモンゴメリー郡と名付けられた。この新しい郡で最も人口が多く繁栄していた町はジョージタウンだったが、その場所が郡の南端からは遙かに遠かったので、地方政府を置く場所としては使えなかった。ロックビルは小さな町だったが、新郡の中心にあり旅行者の行き交う町だったので郡庁所在地に選ばれた。このために町はモンゴメリー・コートハウスと呼ばれるようになった。
1748年、地元の土地所有者ウィリアム・プラサー・ウィリアムズが町の区画を決めるために1人の測量士を雇用した。このウィリアムズに因んで多くの者は町をウィリアムズバーグと呼んだ。しかし、実際にはウィリアムズバーグとモンゴメリー・コートハウスのどちらもが使われた。モンゴメリー郡が創られ、そのごジョージタウンがコロンビア特別区を造るために割譲されると、ロックビルの存在感が増した〔。
1803年7月16日、この地域は公式に郡の土地登記簿に載ったが、使われた名前は「ロックビル」であり、ロック・クリークから名付けられたと考えられた。それでもモンゴメリー・コートハウスという名前は1820年代まで地図や文書上で使われ続けた。
ロックビルで最古の現存する建物はノースアダムズ通り5番にある。この区画は1972年に76番区画として販売され、家が建てられた。1860年と1880年にはさらに増築が行われた。最近の改修は1974年のことだった。現在ある家の最古の部分は通りに一番近いところにあり、事務所として使われている〔。
メリーランド州議会はロックビル住人の請願に応じて1860年3月10日にこの町を自治体に編入した。南北戦争のとき、北軍ジョージ・マクレラン将軍が1862年にビール・ドーソンの家に滞在した。さらに南軍J・E・B・スチュアート将軍と8,000名の南軍騎兵隊が、ゲティスバーグに向かう途中の1863年6月28日に行軍してきてロックビルを占領し、スチュアートはプリティマンの家に泊まった。南軍のジュバル・アーリー将軍もワシントンD.C.攻撃への行きと帰りでメリーランドのこの当たりを横切った。
1873年ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道がロックビルを通り、ワシントンD.C.へのアクセスが良くなった。1891年7月、テネリータウン・アンド・ロックビル鉄道がロックビルでは初のトロリー電車を運行し、ウェスタン・アベニューとウィスコンシン・アベニューにあるテネリータウン鉄道駅とジョージタウンとを結んだ。
ジョージタウンとロックビルを繋いだことで、ロックビルからワシントンD.C.までトロリー電車で繋がれた。トロリー電車は40年間運行されたが、自動車の隆盛と共にその運命を終え、1935年8月に廃止された。1924年から1955年まではロックビルとモンゴメリー郡内とを結ぶバス便をブルーリッジ交通会社が運行した。1955年以降1970年代まで、公共交通インフラを整備する動きは無かった。その後、ワシントン都市圏交通公社がワシントンメトロをロックビルまで延伸し、モンゴメリー郡内にはメトロバスを運行した。ワシントンメトロのロックビル駅は1984年12月15日に営業を開始した。メトロバスは1979年に運行を開始したモンゴメリー郡独自のライドオン・バスで補われた。メリーランド州の通勤鉄道であるMARCがそのブランズウィック線をロックビルまで運行した。MARCはロックビルから南にワシントンD.C.のユニオン駅、北にはフレデリックやマーティンズバーグウェストバージニア州)、さらにはその中間点とを結んだ。アムトラックはロックビルからシカゴやワシントンD.C.とを結んだ。
F・スコット・フィッツジェラルドが1940年12月に死去したとき、ロックビル・ユニオン墓地に埋葬された〔http://www.peerlessrockville.org/peerless_places/peerless_places_fitzgeralds_gravesite.htm〕。
冷戦期間、ワシントンD.C.への仮想核攻撃のときに市内を明けるよりもロックビルに留まる方が安全と考えられた。グレンビュー邸宅の最大のもの他15カ所に防空壕が建設された。州間高速道路270号線は緊急用飛行場として考案された。1970年代半ばにはナイキ・ミサイル発射場2カ所がマッディ・ブランチ道路とスヌーファー学校道路沿いに設けられた〔。
1960年代以降、元は地域の商業中心だったロックビル中心街は衰退を始めた。地域再生の試みでロックビル・モールが造られたが、大きな小売店も消費者も惹き付けられずに1994年に解体された。中心街再生の努力は続けられたが、ロックビルの経済活動の大半はロックビル・パイク沿いに移されてきた。2004年、ロックビル市長ラリー・ジアモがロックビル・タウンスクェア再生の計画を発表した。これには新しい店舗や住宅の建設と、市立図書館の移転が含まれていた。近年、新しいロックビル中心街が形成され、多くのブティック風店舗やレストラン、集合住宅やアパート、さらには劇場、噴水およびロックビル図書館が造られた〔Transforming Rockville Town Center http://www.rockvillemd.gov/towncenter/〕。アメリカ合衆国公衆衛生局の本部がモントローズ道路にあり、アメリカ合衆国原子力規制委員会の本部も市内にある。
ロックビル市は隣接するケンジントンの町や、未編入の国勢調査指定地域であるノースベセスダと密接な関わりがある。音楽と演劇の会場であるストラスモア音楽センターが2005年2月にノースベセスダで開館し、現在はボルティモア交響楽団の第2の本拠地となっている。ロックビル市民センター公園にあるフィッツジェラルド劇場は1960年以降様々な演目を上程している。1998年中心街にリーガル・シネマズがオープンした〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ロックビル (メリーランド州)」の詳細全文を読む



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